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PROFILE
Calligrapher
Inada Sōsai
1949 Born in Uji, Kyoto
1972 Exhibited in a Bokujin exhibition for the first time
1984 Became a Bokujinkai member
The greatest theme for me is
how to move the structure of a script to its utmost.
With the movement of each moment, I continue moving
So that I am not tied down to a motion.
As I become one with my inner breath.
At every moment of movement
While the moves are fresh and new,
The structure of the characters grows even deeper.
From complete self-reflection
My brush begins to rise of its own accord
My brush begins to move of its own accord
This movement is the most difficult of all.
森田子龍
1912年(明治45年)~1999年(平成11年)。兵庫県豊岡市生まれ。本名・清。上田桑鳩に師事し、戦前の書芸術運動の中核である『書道芸術』誌の編集に携わった。戦後は諸芸術革新の先頭を切って墨人会を結成、『墨美』誌を主宰。それを拠点に世界の美術界に「書あり」の一大運動を展開し、1955年のヨーロッパ巡回「現代日本の書・墨の芸術」展を企画した。命の躍動が外に躍り出て形を結んだものが書であるとし、作品を世に問うている。
Studied under Morita Shiryū
Left to right: Morita Shiryū (standing), Seki Yoshimichi, Inoue Yūichi, and Nakamura Bokushi at the Isamu Noguchi exhibition at the Museum of Modern Art, Kamakura
on September 24, 1952, the year Bokujinkai was formed.
First issue of Bokujin, April 1952
Bokujinkai
Bokujinkai (People of the Ink Society) was formed by Morita Shiryū, Inoue Yūichi, Eguchi Sōgen, Sekiya Yoshimichi, and Nakamura Bokushi, under the auspices of Ueda Sōkyū, on May 1, 1952 at Ryōan-ji, a Kyoto Zen temple known for its famous rock garden. The members severed ties with tired customs of calligraphy and embarked upon creating the true form of sho. After establishing the study of the classics as their foundation and devoting themselves to the study and pursuit of sho through their exchanges with Western abstract painting and engagement with aesthetics and Zen philosophy, they came to embody the mottos of “sho is formed by writing characters” and “sho is the movement of life and the manifestation of the way to live.”
墨人会について
墨人会は上田桑鳩のもとにあった森田子龍・井上有一・江口草玄・関谷義道・中村木子の5人が1952年(昭和27年)1月5日に京都の竜安寺石庭に集い、独立結成の呱々の声をあげました。それまでの書を取り巻く因襲に満ちた世界と一切縁を断ち、真の「書」の模索と創造に向けて船出したのでした。爾来、古典の研究を中心に据え、西洋抽象絵画との交流、また美学、禅哲学との出会いを通して全力的・極力的な研鑚と追究の末に「書は文字を書くことにより成立する」「書は命の躍動であり生き方のかたちである」という言葉に結晶してゆきました。
現在、墨人会全体の活動には、毎年1月5日の創立記念日に会員(審査員)による研究発表、4月に公募東京展(東京都美術館)、7月または8月に夏季合宿(制作及び会員による研究発表)、秋には公募京都展(京都市立美術館)があります。そのほか全国各地域での活発な活動が展開されています。総合研究月刊誌「墨人」は既に創刊以来600号を超えています。
墨人は「書」をこう考える
われわれ墨人は、書くということは自らの内の躍動が文字をかくという動きのなかで、外へ出ていって形になることだと考えている。内から直にでてゆくものだと考えている。
書における動きの表現は、大きな迫力で見る人に迫ってゆくようなものから、底に大きな力を持っているけれども、見る人をやさしく吸い込み抱きとるような包容力をもつものもあり、また見る人の気持ちをほぐして解き放ってあげるというようなものまで、大きな幅があります。これは動きの表現のあり方で見る人に直に伝わるものです。理屈ではなく知識でもありません。全身的な感覚ともいうべきものでしょう。例えていえば、知らない人と初対面のとき、ことばの通じない場合でも、会って先方の圧力を感ずることもあれば、先方に抱きとられた様なやすらぎを感ずることもあります。そこには人間の善良さだけでないもの、境涯の深さから来るものもあると思います。その全体を含めてそれは本能的ともいえる全身的な感覚で人間に普遍なものだと思います。人間信頼であり、そういう中での人間の深まりが見られているのだと思います。
そういう信頼に値する人間の生の深さが直に生かされ表現されやすいのが書だと考えます。書をそういうものであらしむるために「心の躍動」といわずに「いのちの躍動」と言っております。心というのは、ああ考えこうも思うというようにそのはたらきには或る程度かたちを持つ段階をとらえたことばですが、そのかたちを持つ前のより深い層での内の動きを「いのちの躍動」ということばでいっているのです。意識も届かない深みからの躍動をいのちということばでとらえたいのです。善悪を超えた底の底からの躍動が生きて出てゆくのが書だと考えているわけです。それは、見る人の表層の感覚に訴えかけるというものではなく、直にいのちを打つ、そういう深い力を持つものです。
墨人会について
墨人会は上田桑鳩のもとにあった森田子龍・井上有一・江口草玄・関谷義道・中村木子の5人が1952年(昭和27年)1月5日に京都の竜安寺石庭に集い、独立結成の呱々の声をあげました。それまでの書を取り巻く因襲に満ちた世界と一切縁を断ち、真の「書」の模索と創造に向けて船出したのでした。爾来、古典の研究を中心に据え、西洋抽象絵画との交流、また美学、禅哲学との出会いを通して全力的・極力的な研鑚と追究の末に「書は文字を書くことにより成立する」「書は命の躍動であり生き方のかたちである」という言葉に結晶してゆきました。
現在、墨人会全体の活動には、毎年1月5日の創立記念日に会員(審査員)による研究発表、4月に公募東京展(東京都美術館)、7月または8月に夏季合宿(制作及び会員による研究発表)、秋には公募京都展(京都市立美術館)があります。そのほか全国各地域での活発な活動が展開されています。総合研究月刊誌「墨人」は既に創刊以来600号を超えています。
墨人は「書」をこう考える
われわれ墨人は、書くということは自らの内の躍動が文字をかくという動きのなかで、外へ出ていって形になることだと考えている。内から直にでてゆくものだと考えている。
書における動きの表現は、大きな迫力で見る人に迫ってゆくようなものから、底に大きな力を持っているけれども、見る人をやさしく吸い込み抱きとるような包容力をもつものもあり、また見る人の気持ちをほぐして解き放ってあげるというようなものまで、大きな幅があります。これは動きの表現のあり方で見る人に直に伝わるものです。理屈ではなく知識でもありません。全身的な感覚ともいうべきものでしょう。例えていえば、知らない人と初対面のとき、ことばの通じない場合でも、会って先方の圧力を感ずることもあれば、先方に抱きとられた様なやすらぎを感ずることもあります。そこには人間の善良さだけでないもの、境涯の深さから来るものもあると思います。その全体を含めてそれは本能的ともいえる全身的な感覚で人間に普遍なものだと思います。人間信頼であり、そういう中での人間の深まりが見られているのだと思います。
そういう信頼に値する人間の生の深さが直に生かされ表現されやすいのが書だと考えます。書をそういうものであらしむるために「心の躍動」といわずに「いのちの躍動」と言っております。心というのは、ああ考えこうも思うというようにそのはたらきには或る程度かたちを持つ段階をとらえたことばですが、そのかたちを持つ前のより深い層での内の動きを「いのちの躍動」ということばでいっているのです。意識も届かない深みからの躍動をいのちということばでとらえたいのです。善悪を超えた底の底からの躍動が生きて出てゆくのが書だと考えているわけです。それは、見る人の表層の感覚に訴えかけるというものではなく、直にいのちを打つ、そういう深い力を持つものです。