稻田宗哉稲田宗哉
稻田宗哉
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NEWS

第17回書の森展

第17回書の森展

第17回書の森展に出品します。 会場:ギャリエヤマシタ 2号館1階 京都市中京区寺町通り三条上る天性寺前町533 会期:2024年12月1…
顔真卿「争座位稿」臨書「挫」

臨書ギャラリーを更新しました

臨書ギャラリー(RINSHO)を更新しました。
第126回公募墨人京都展 開催中

第126回公募墨人京都展 開催中

第126回公募墨人京都展が開催中です。 会場:京都市京セラ美術館2階北 会期:2024年11月5日(火)~11月10…
雑誌『墨』掲載・2024年9月開催の個展『墨人・稻田宗哉書作展II 文字の骨格を動く』

雑誌『墨』掲載・2024年9月開催の個展『墨人・稻田宗哉書作展II 文字の骨格を動く』

雑誌『墨』掲載より転載。墨人・稻田宗哉書作展II 文字の骨格を動く 雑誌『墨』に、2024年9月開催の個展『墨人・稻田宗哉書作展II 文字の骨格を動く』の記事が掲載されました。 会場:コート・ギャラリー国立 〒186-0004 東京都国立市中1-8-32 会期:2024年9月5日(木)~9月10日(火) …

PROFILE

書家

稻田 宗哉

1949年 京都宇治に生まれる
1972年 墨人展へ出品し始める
1984年 墨人会会員になる

私にとって「文字」の骨格を”どう動ききるか”
このことが大きな課題であります

刹那刹那の動き、動きつつ
その動きに縛られない内のあり方

内の呼吸と一つになって
あらゆる動きの場面で
新鮮な動きでありながら
より深く文字の骨格を動く

徹底した自省のなかから
おのずから筆が立ち上がってくる
おのずから筆が動いてくれるこの動き
難中の難であります

森田子龍

1912年(明治45年)~1999年(平成11年)。兵庫県豊岡市生まれ。本名・清。上田桑鳩に師事し、戦前の書芸術運動の中核である『書道芸術』誌の編集に携わった。戦後は諸芸術革新の先頭を切って墨人会を結成、『墨美』誌を主宰。それを拠点に世界の美術界に「書あり」の一大運動を展開し、1955年のヨーロッパ巡回「現代日本の書・墨の芸術」展を企画した。命の躍動が外に躍り出て形を結んだものが書であるとし、作品を世に問うている。

「人間の肉体的な動きは、人間の内奥最も深いところにつながり、そこから命の躍動そのままに出てくる原初的かつ根源的な表現の道なのである。書がこの未知の上に成立しているということの意味は、重大である。この道を外れたところでの表現は、その深さにおいて、強さ自然さにおいて、到底書表現と比べることはできない。私は書を考える上で、まずこの一点を要として確実につかんでおきたい、と考えている。」(森田子龍)
墨人会

1952年墨人結成の年 9月24日
イサム・ノグチ展を鎌倉近代美術館にみて
右より、中村木子(36才)井上有一(36才)関谷義道(32才)森田子龍(40才)

墨人誌創刊号 1952年4月発行

墨人誌創刊号 1952年4月発行

墨人会について

墨人会は上田桑鳩のもとにあった森田子龍・井上有一・江口草玄・関谷義道・中村木子の5人が1952年1月5日に京都の竜安寺石庭集い、独立結成の呱々の声をあげました。それまでの書を取り巻く因襲に満ちた世界と一切縁を断ち、真の「書」の模索と創造に向けて船出したのでした。爾来、古典の研究を中心に据え、西洋抽象絵画との交流、また美学、禅哲学との出会いを通して全力的・極力的な研鑚と追求の末に「書は文字を書くことにより成立する」「書は命の躍動であり生き方のかたちである」という言葉に結晶してゆきました。

墨人会について

墨人会は上田桑鳩のもとにあった森田子龍・井上有一・江口草玄・関谷義道・中村木子の5人が1952年(昭和27年)1月5日に京都の竜安寺石庭に集い、独立結成の呱々の声をあげました。それまでの書を取り巻く因襲に満ちた世界と一切縁を断ち、真の「書」の模索と創造に向けて船出したのでした。爾来、古典の研究を中心に据え、西洋抽象絵画との交流、また美学、禅哲学との出会いを通して全力的・極力的な研鑚と追究の末に「書は文字を書くことにより成立する」「書は命の躍動であり生き方のかたちである」という言葉に結晶してゆきました。

現在、墨人会全体の活動には、毎年1月5日の創立記念日に会員(審査員)による研究発表、4月に公募東京展(東京都美術館)、7月または8月に夏季合宿(制作及び会員による研究発表)、秋には公募京都展(京都市立美術館)があります。そのほか全国各地域での活発な活動が展開されています。総合研究月刊誌「墨人」は既に創刊以来600号を超えています。

墨人会は、根元の生命にかえって全人的に生きることをねがいその具体化の重要な場として書の制作におもむいている人びとの集まりである。われわれはみずからこのような生き方を制作によって深めると共に、作品を通して人びととひびきあうことによって、信頼に満ちた世界を築きあげたいのである。その地域と環境を背負う歴史の如何を問わず、そこを場としてこのねがいを実現しようとする人々は、われわれの同胞である。ひろく手をつないでいきたい。現在のところ、我々の活動の共通の場として、雑誌「墨人」、展覧会、研究会等を持っている。互いにひびきあい、相互の信愛の上に築かれたグループの本領を発揮することを通して、個々の生を全うしたい。

墨人は「書」をこう考える

われわれ墨人は、書くということは自らの内の躍動が文字をかくという動きのなかで、外へ出ていって形になることだと考えている。内から直にでてゆくものだと考えている。

書における動きの表現は、大きな迫力で見る人に迫ってゆくようなものから、底に大きな力を持っているけれども、見る人をやさしく吸い込み抱きとるような包容力をもつものもあり、また見る人の気持ちをほぐして解き放ってあげるというようなものまで、大きな幅があります。これは動きの表現のあり方で見る人に直に伝わるものです。理屈ではなく知識でもありません。全身的な感覚ともいうべきものでしょう。例えていえば、知らない人と初対面のとき、ことばの通じない場合でも、会って先方の圧力を感ずることもあれば、先方に抱きとられた様なやすらぎを感ずることもあります。そこには人間の善良さだけでないもの、境涯の深さから来るものもあると思います。その全体を含めてそれは本能的ともいえる全身的な感覚で人間に普遍なものだと思います。人間信頼であり、そういう中での人間の深まりが見られているのだと思います。

そういう信頼に値する人間の生の深さが直に生かされ表現されやすいのが書だと考えます。書をそういうものであらしむるために「心の躍動」といわずに「いのちの躍動」と言っております。心というのは、ああ考えこうも思うというようにそのはたらきには或る程度かたちを持つ段階をとらえたことばですが、そのかたちを持つ前のより深い層での内の動きを「いのちの躍動」ということばでいっているのです。意識も届かない深みからの躍動をいのちということばでとらえたいのです。善悪を超えた底の底からの躍動が生きて出てゆくのが書だと考えているわけです。それは、見る人の表層の感覚に訴えかけるというものではなく、直にいのちを打つ、そういう深い力を持つものです。

墨人会

1952年墨人結成

墨人誌創刊号 1952年4月発行

墨人誌創刊号

墨人会について

墨人会は上田桑鳩のもとにあった森田子龍・井上有一・江口草玄・関谷義道・中村木子の5人が1952年(昭和27年)1月5日に京都の竜安寺石庭に集い、独立結成の呱々の声をあげました。それまでの書を取り巻く因襲に満ちた世界と一切縁を断ち、真の「書」の模索と創造に向けて船出したのでした。爾来、古典の研究を中心に据え、西洋抽象絵画との交流、また美学、禅哲学との出会いを通して全力的・極力的な研鑚と追究の末に「書は文字を書くことにより成立する」「書は命の躍動であり生き方のかたちである」という言葉に結晶してゆきました。

現在、墨人会全体の活動には、毎年1月5日の創立記念日に会員(審査員)による研究発表、4月に公募東京展(東京都美術館)、7月または8月に夏季合宿(制作及び会員による研究発表)、秋には公募京都展(京都市立美術館)があります。そのほか全国各地域での活発な活動が展開されています。総合研究月刊誌「墨人」は既に創刊以来600号を超えています。

墨人会は、根元の生命にかえって全人的に生きることをねがいその具体化の重要な場として書の制作におもむいている人びとの集まりである。われわれはみずからこのような生き方を制作によって深めると共に、作品を通して人びととひびきあうことによって、信頼に満ちた世界を築きあげたいのである。その地域と環境を背負う歴史の如何を問わず、そこを場としてこのねがいを実現しようとする人々は、われわれの同胞である。ひろく手をつないでいきたい。現在のところ、我々の活動の共通の場として、雑誌「墨人」、展覧会、研究会等を持っている。互いにひびきあい、相互の信愛の上に築かれたグループの本領を発揮することを通して、個々の生を全うしたい。

墨人は「書」をこう考える

われわれ墨人は、書くということは自らの内の躍動が文字をかくという動きのなかで、外へ出ていって形になることだと考えている。内から直にでてゆくものだと考えている。

書における動きの表現は、大きな迫力で見る人に迫ってゆくようなものから、底に大きな力を持っているけれども、見る人をやさしく吸い込み抱きとるような包容力をもつものもあり、また見る人の気持ちをほぐして解き放ってあげるというようなものまで、大きな幅があります。これは動きの表現のあり方で見る人に直に伝わるものです。理屈ではなく知識でもありません。全身的な感覚ともいうべきものでしょう。例えていえば、知らない人と初対面のとき、ことばの通じない場合でも、会って先方の圧力を感ずることもあれば、先方に抱きとられた様なやすらぎを感ずることもあります。そこには人間の善良さだけでないもの、境涯の深さから来るものもあると思います。その全体を含めてそれは本能的ともいえる全身的な感覚で人間に普遍なものだと思います。人間信頼であり、そういう中での人間の深まりが見られているのだと思います。

そういう信頼に値する人間の生の深さが直に生かされ表現されやすいのが書だと考えます。書をそういうものであらしむるために「心の躍動」といわずに「いのちの躍動」と言っております。心というのは、ああ考えこうも思うというようにそのはたらきには或る程度かたちを持つ段階をとらえたことばですが、そのかたちを持つ前のより深い層での内の動きを「いのちの躍動」ということばでいっているのです。意識も届かない深みからの躍動をいのちということばでとらえたいのです。善悪を超えた底の底からの躍動が生きて出てゆくのが書だと考えているわけです。それは、見る人の表層の感覚に訴えかけるというものではなく、直にいのちを打つ、そういう深い力を持つものです。

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© INADA SŌSAI